夜、リビングの明かりの下で、ノートに向かう娘の背中を見ているとき。
いつも、胸の中に小さなざわめきが生まれます。
——私は、本当にこの子の「勉強」に、正しい距離感で向き合えているだろうか。
今日は、そんな 親自身の反省・振り返り を、正面から言葉にしておきたいと思います。
これは「こうすべき」という説教ではなく、ひとりの親としての、覚悟の確認です。
「勉強しろ」と言わないと決めている理由
私は、娘に対して一切「勉強しなさい」とは言いません。
これはきれいごとではなく、かなり意識して決めているスタンスです。
理由は単純で、
「勉強しろ」と言うことは、親としての“逃げ”になりやすい
と感じているからです。
- 自分はスマホをいじりながら
- テレビをつけっぱなしにしながら
- 口だけで「勉強しなさい」と言う
それは、どう考えてもフェアではありません。
私は、
「なんで私だけ勉強するの?」
と子どもに思わせる状況を、生み出したくありません。
だからこそ、娘が勉強しているとき、私はできる限り、
- 本を読む
- 勉強する
- 仕事をする
という、「自分なりの学び」に向き合う姿を見せるようにしています。
親としての反省①
「口先だけの応援」をしていなかったか
正直に言います。
私自身も、心のどこかで「言ってしまったほうがラクだ」と思う瞬間があります。
- 宿題がなかなか進まないとき
- 疲れて集中が切れているとき
- ダラダラしているように見えてイラッとしたとき
心の中に、反射的に出てくる言葉は、いつも同じです。
「ねえ、そろそろ勉強したら?」
でも、その言葉が舌の先まで出かかった瞬間、
私はぐっと飲み込みます。
なぜなら、その一言には、
- 自分の不安
- 自分の焦り
- 自分の「コントロールしたい」という欲
が、かなりの割合で混ざっていると自覚しているからです。
「子どものため」と言いながら、
実際には “自分が安心したいだけ” になっていないか——。
そのことを、何度も反省してきました。
親としての反省②
“目標”を子どもに押し付けていないか
娘には、明確な目標があります。
それは、私たち親が勝手に決めたものではなく、
本人が言葉にし始めた「夢」でもあります。
それでも、です。
親として「こうなってほしい」というイメージを持ち始めると、
人間はどうしても、そのレールに乗せようとしたくなります。
- この学校に行ってほしい
- このテストで結果を出してほしい
- この時期までに、このレベルに届いていてほしい
その「ほしい」が積み重なっていくと、
気づかぬうちに、子どもが “親のプロジェクト” になってしまう危険があります。
それは、決して本意ではないはずなのに、
結果としてそうなってしまうことがある。
これもまた、私が常に自分に問い続けている反省点です。
「これは本当に、子どもの夢なのか」
「それとも、自分の願望を“夢”と呼んでいないか」
この問いを、私は意識的に自分にぶつけるようにしています。
私が選んだ方法:
「背中」で語るという生き方
「勉強しろ」と言わない代わりに、
私がやるべきだと決めていることが、ひとつあります。
それは、
自分が黙々と学び続けること
です。
- 本棚の前に座り、本を開く
- パソコンの前で、真剣に仕事や研究に向き合う
- 自分のノートにアイデアや気づきをメモし続ける
娘の視界に入る位置で、
私は「大人が本気で学んでいる姿」を置きたいのです。
子どもにとって、
- 「勉強しなさい」と言われる家庭
と - 「気づいたら、大人がいつも何かを学んでいる家庭」
この二つは、まったく別世界です。
前者は、「やらされる勉強」。
後者は、「勉強が息をするように存在している空気」。
私が目指しているのは、後者の世界です。
親としての反省③
「疲れた大人の背中」を見せすぎていないか
とはいえ、私は完璧な人間ではありません。
- 眠いときもある
- やる気が出ない日もある
- ただボーッとしたくなる夜もある
そんなとき、ふと気づくと、
- ソファーに寝転がりながらスマホを触っている自分
- なんとなくテレビの前で時間を流している自分
がいます。
その瞬間、ハッとするのです。
ああ、いま娘に見せているのは、
「本気で生きている大人の背中」ではなく、
「ただ疲れ切った大人の姿」かもしれない——と。
もちろん、休むことは悪ではありません。
むしろ、休み方を子どもに見せることも、大切な学びです。
ですが、
- ただ疲れてダラダラしているのか
- しっかり働き・学び抜いたうえで、意図して休んでいるのか
その違いは、子どもに伝わってしまうと感じています。
だからこそ私は、
- 「今日はここまでやり切ったから、あとはゆっくり休むね」
と、できるだけ “区切りと言葉” をセットで見せるようにしています。
それもまた、私なりの「反省の結果」です。
子どもは、親の「言葉」よりも「空気」を見ている
私が痛感しているのは、
子どもは、親の言葉よりも
親の“空気”を敏感に感じ取っている
ということです。
- 親が本気で何かに向き合っているときの空気
- ただイライラを子どもにぶつけているときの空気
- 自分の不安を隠しきれず、焦っているときの空気
それらは、どんなに言葉でごまかしても、
子どもには、ほぼ丸見えです。
だから私は、「勉強しろ」と言わない代わりに、
自分自身の“在り方”という空気を、少しでもマシなものにしたい
と願っています。
- 朝、早く起きる
- 机に向かう
- 本を読む
- ノートを書く
- 仕事に集中する
それらを積み重ねることで、
家の中に「学ぶことが当たり前の空気」を、じわじわと広げていく。
それが、親としての私の役割のひとつだと信じています。
親としての反省④
「成果」でしか子どもを見ていない瞬間がないか
テスト結果や模試の成績は、どうしても気になります。
志望校を目指しているならなおさらです。
親としても、
- 偏差値
- 順位
- 点数
こうした数字に一喜一憂してしまう自分がいます。
ここで、私が何度も反省しているのは、
「結果」だけを見て、
その裏にある「過程」を見落としていないか
ということです。
- そのテストに向けて、子どもがどんな工夫をしたか
- どこでつまずいて、どこを乗り越えたのか
- 勉強する時間をどう捻出していたのか
そこに気づかず、
「あと〇点取れたはずだよね」
「ここはミスだよね」
とだけ言ってしまうのは、
親としての怠慢だと、私は自分を叱咤しています。
数字は確かに分かりやすい指標です。
しかし、人間を“数字だけ”で評価し始めたら、もう終わりです。
娘の努力を、
「偏差値」や「順位」だけに還元してしまう危うさを、
私は強く自覚しておきたいと思っています。
私が大切にしたい問い
「この親の姿を、子どもに誇れるか」
結局、最後に残る問いは、とてもシンプルです。
今の自分の生き方は、
将来、娘に胸を張って見せられるか。
たとえ、志望校に合格しようがしまいが、
テストで上位に入ろうが入るまいが、
- 大人になった娘がふと振り返ったとき、
- 「ああ、お父さん(お母さん)は、いつも何かに本気で向き合っていたな」
そう感じてくれるかどうか。
私はそこに、親としての最終的な評価軸を置きたいと思っています。
娘に「勉強しろ」と一度も言わなかったことが誇りなのではなく、
「勉強しろ」と言わずに済むくらい、
自分が本気で学び続けていたかどうか。
問われているのは、いつも 親である自分自身 です。
これからの自分への宣言
最後に、これは娘に対してではなく、
「親としての自分」への宣言として書いておきます。
- 私は、安易に「勉強しろ」と言わない。
- その代わりに、自分が本気で学び続ける。
- 子どもの夢を、親の都合で塗り替えない。
- 結果だけでなく、過程と姿勢を見る。
- 家の空気そのものを、「学びの場」に育てていく。
完璧にはできません。
感情的になってしまう日も、きっとまた来ます。
それでも、何度でも反省し、何度でも姿勢を正しながら、
私は 「背中で語る親」 であり続けたいと思います。
子どもにとってのいちばんの教材は、
本でも、問題集でも、動画でもなく、
「目の前で生きている、大人の生き方そのもの」
だからです。
そのことを忘れないために、
私は今日も、自分のノートを開き、自分の勉強を続けます。
