PR

「勉強しろ」と言わないと決めた親の、静かな反省録

ライフスタイル
この記事は約6分で読めます。

夜、リビングの明かりの下で、ノートに向かう娘の背中を見ているとき。
いつも、胸の中に小さなざわめきが生まれます。

——私は、本当にこの子の「勉強」に、正しい距離感で向き合えているだろうか。

今日は、そんな 親自身の反省・振り返り を、正面から言葉にしておきたいと思います。
これは「こうすべき」という説教ではなく、ひとりの親としての、覚悟の確認です。


「勉強しろ」と言わないと決めている理由

私は、娘に対して一切「勉強しなさい」とは言いません。

これはきれいごとではなく、かなり意識して決めているスタンスです。
理由は単純で、

「勉強しろ」と言うことは、親としての“逃げ”になりやすい

と感じているからです。

  • 自分はスマホをいじりながら
  • テレビをつけっぱなしにしながら
  • 口だけで「勉強しなさい」と言う

それは、どう考えてもフェアではありません。

私は、

「なんで私だけ勉強するの?」
と子どもに思わせる状況を、生み出したくありません。

だからこそ、娘が勉強しているとき、私はできる限り、

  • 本を読む
  • 勉強する
  • 仕事をする

という、「自分なりの学び」に向き合う姿を見せるようにしています。


親としての反省①

「口先だけの応援」をしていなかったか

正直に言います。

私自身も、心のどこかで「言ってしまったほうがラクだ」と思う瞬間があります。

  • 宿題がなかなか進まないとき
  • 疲れて集中が切れているとき
  • ダラダラしているように見えてイラッとしたとき

心の中に、反射的に出てくる言葉は、いつも同じです。

「ねえ、そろそろ勉強したら?」

でも、その言葉が舌の先まで出かかった瞬間、
私はぐっと飲み込みます。

なぜなら、その一言には、

  • 自分の不安
  • 自分の焦り
  • 自分の「コントロールしたい」という欲

が、かなりの割合で混ざっていると自覚しているからです。

「子どものため」と言いながら、
実際には “自分が安心したいだけ” になっていないか——。

そのことを、何度も反省してきました。


親としての反省②

“目標”を子どもに押し付けていないか

娘には、明確な目標があります。
それは、私たち親が勝手に決めたものではなく、
本人が言葉にし始めた「夢」でもあります。

それでも、です。

親として「こうなってほしい」というイメージを持ち始めると、
人間はどうしても、そのレールに乗せようとしたくなります。

  • この学校に行ってほしい
  • このテストで結果を出してほしい
  • この時期までに、このレベルに届いていてほしい

その「ほしい」が積み重なっていくと、
気づかぬうちに、子どもが “親のプロジェクト” になってしまう危険があります。

それは、決して本意ではないはずなのに、
結果としてそうなってしまうことがある。

これもまた、私が常に自分に問い続けている反省点です。

「これは本当に、子どもの夢なのか」
「それとも、自分の願望を“夢”と呼んでいないか」

この問いを、私は意識的に自分にぶつけるようにしています。


私が選んだ方法:

「背中」で語るという生き方

「勉強しろ」と言わない代わりに、
私がやるべきだと決めていることが、ひとつあります。

それは、

自分が黙々と学び続けること

です。

  • 本棚の前に座り、本を開く
  • パソコンの前で、真剣に仕事や研究に向き合う
  • 自分のノートにアイデアや気づきをメモし続ける

娘の視界に入る位置で、
私は「大人が本気で学んでいる姿」を置きたいのです。

子どもにとって、

  • 「勉強しなさい」と言われる家庭
  • 「気づいたら、大人がいつも何かを学んでいる家庭」

この二つは、まったく別世界です。

前者は、「やらされる勉強」。
後者は、「勉強が息をするように存在している空気」。

私が目指しているのは、後者の世界です。


親としての反省③

「疲れた大人の背中」を見せすぎていないか

とはいえ、私は完璧な人間ではありません。

  • 眠いときもある
  • やる気が出ない日もある
  • ただボーッとしたくなる夜もある

そんなとき、ふと気づくと、

  • ソファーに寝転がりながらスマホを触っている自分
  • なんとなくテレビの前で時間を流している自分

がいます。

その瞬間、ハッとするのです。

ああ、いま娘に見せているのは、
「本気で生きている大人の背中」ではなく、
「ただ疲れ切った大人の姿」かもしれない——と。

もちろん、休むことは悪ではありません。
むしろ、休み方を子どもに見せることも、大切な学びです。

ですが、

  • ただ疲れてダラダラしているのか
  • しっかり働き・学び抜いたうえで、意図して休んでいるのか

その違いは、子どもに伝わってしまうと感じています。

だからこそ私は、

  • 「今日はここまでやり切ったから、あとはゆっくり休むね」

と、できるだけ “区切りと言葉” をセットで見せるようにしています。

それもまた、私なりの「反省の結果」です。


子どもは、親の「言葉」よりも「空気」を見ている

私が痛感しているのは、

子どもは、親の言葉よりも
親の“空気”を敏感に感じ取っている

ということです。

  • 親が本気で何かに向き合っているときの空気
  • ただイライラを子どもにぶつけているときの空気
  • 自分の不安を隠しきれず、焦っているときの空気

それらは、どんなに言葉でごまかしても、
子どもには、ほぼ丸見えです。

だから私は、「勉強しろ」と言わない代わりに、

自分自身の“在り方”という空気を、少しでもマシなものにしたい

と願っています。

  • 朝、早く起きる
  • 机に向かう
  • 本を読む
  • ノートを書く
  • 仕事に集中する

それらを積み重ねることで、
家の中に「学ぶことが当たり前の空気」を、じわじわと広げていく。

それが、親としての私の役割のひとつだと信じています。


親としての反省④

「成果」でしか子どもを見ていない瞬間がないか

テスト結果や模試の成績は、どうしても気になります。
志望校を目指しているならなおさらです。

親としても、

  • 偏差値
  • 順位
  • 点数

こうした数字に一喜一憂してしまう自分がいます。

ここで、私が何度も反省しているのは、

「結果」だけを見て、
その裏にある「過程」を見落としていないか

ということです。

  • そのテストに向けて、子どもがどんな工夫をしたか
  • どこでつまずいて、どこを乗り越えたのか
  • 勉強する時間をどう捻出していたのか

そこに気づかず、

「あと〇点取れたはずだよね」
「ここはミスだよね」

とだけ言ってしまうのは、
親としての怠慢だと、私は自分を叱咤しています。

数字は確かに分かりやすい指標です。
しかし、人間を“数字だけ”で評価し始めたら、もう終わりです。

娘の努力を、
「偏差値」や「順位」だけに還元してしまう危うさを、
私は強く自覚しておきたいと思っています。


私が大切にしたい問い

「この親の姿を、子どもに誇れるか」

結局、最後に残る問いは、とてもシンプルです。

今の自分の生き方は、
将来、娘に胸を張って見せられるか。

たとえ、志望校に合格しようがしまいが、
テストで上位に入ろうが入るまいが、

  • 大人になった娘がふと振り返ったとき、
  • 「ああ、お父さん(お母さん)は、いつも何かに本気で向き合っていたな」

そう感じてくれるかどうか。

私はそこに、親としての最終的な評価軸を置きたいと思っています。

娘に「勉強しろ」と一度も言わなかったことが誇りなのではなく、

「勉強しろ」と言わずに済むくらい、
自分が本気で学び続けていたかどうか。

問われているのは、いつも 親である自分自身 です。


これからの自分への宣言

最後に、これは娘に対してではなく、
「親としての自分」への宣言として書いておきます。

  • 私は、安易に「勉強しろ」と言わない。
  • その代わりに、自分が本気で学び続ける。
  • 子どもの夢を、親の都合で塗り替えない。
  • 結果だけでなく、過程と姿勢を見る。
  • 家の空気そのものを、「学びの場」に育てていく。

完璧にはできません。
感情的になってしまう日も、きっとまた来ます。

それでも、何度でも反省し、何度でも姿勢を正しながら、
私は 「背中で語る親」 であり続けたいと思います。

子どもにとってのいちばんの教材は、
本でも、問題集でも、動画でもなく、

「目の前で生きている、大人の生き方そのもの」

だからです。

そのことを忘れないために、
私は今日も、自分のノートを開き、自分の勉強を続けます。

タイトルとURLをコピーしました