偏差値の向こう側へ―なぜ私たちは「全国統一小学生テスト」「桜蔭中学」「医学部」にこだわるのか―

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第1章:偏差値という“物差し”から逃げられない時代に生きている

偏差値という言葉ほど、私たち親世代にとって「重く、でも口にしやすい言葉」はないかもしれません。
私たちは、偏差値という一つの数値に、安心したり、焦ったり、自己肯定感さえ揺さぶられたりする。

では、なぜここまで「偏差値」が私たちの心に刺さるのでしょうか。

それはたぶん、「わかりやすいから」です。

子どもの成長という見えにくいものに、明確な“順位”や“平均”という数字が付く。
その瞬間、親としての不安や迷いが、一時的に静まる。
「うちの子、大丈夫かもしれない」
「このまま頑張れば、夢に近づけるかもしれない」
──そんな“確かさ”を、偏差値は私たちに与えてくれる。

でも同時に、それは危うい“麻酔”でもある。

偏差値が高い=幸せ
偏差値が低い=不幸

そんな図式に知らず知らず支配されてしまうと、勉強は“目的”ではなく、“手段”どころか“脅迫”になってしまう。

だからこそ、私たちは問い直さなければならないのです。
「偏差値の向こうに、何を見ているのか?」と。


第2章:それでも、なぜ私たちは「全国統一小学生テスト」に挑むのか

11月3日。全国統一小学生テスト。

ただの模試。されど、されど──
我が家にとっては、まさに「学びの節目」。

偏差値を競うため?順位を狙うため?──それだけじゃない。

私たちがこのテストを大切にしているのは、
自分の今の位置を客観的に見つめるためです。

学校のテストは「できて当たり前」の範囲で出題される。
でも全国統一小学生テストは、「できる子がどこまで伸びるか」を測る問題も出る。
まるで“自分の限界”に挑戦するような時間。

そこには、「まぐれ」も「ラッキー」もない。
あるのは、積み重ねた日々だけ。

我が家では、テスト直前の1週間を「仕上げ週間」と呼び、
5時起床で演習を重ねてきました。
朝の百マス計算。漢字の書き取り。読解演習。
答えが合っているかよりも、**“頭がフル回転しているか”**に目を向けてきた。

このテストは、「がんばった時間」を自信に変える舞台です。

結果はどうあれ、
「あの日、がんばった自分がいた」という“記憶”を、
子ども自身に持たせたい。

だから、全国統一小学生テストに挑むのです。


第3章:なぜ桜蔭中学という一点を目指すのか──その“場所”に託すもの

なぜ桜蔭なのか?
なぜ、あえてあの“最難関”にこだわるのか?

その答えは、数字や偏差値では語れない“想い”にあります。

あの校舎を初めて見た日。
たたずまいの中に、言葉にできない“誇り”がありました。
静かで、落ち着いていて、でも奥底に燃えるような知性が息づいているような──
ただの学校ではない。
「この場所で学ぶ」ということが、人生の質を変えていく場所。

桜蔭には、ただ成績が良いだけでは入れない空気があります。
求められるのは、学ぶ姿勢、深く考える力、言葉で表現する力

つまりそれは、子ども自身が“人間としてどう育っているか”を試されるということ。

だからこそ、我が家は「桜蔭に挑戦する過程」そのものに、意味を感じています。

入学することが目的なのではない。
そこに到達しようとする過程で、どれだけ“人格”が鍛えられるか。

そして──
その挑戦の中で、親である私たちもまた、問われるのです。
「本気で子どもと向き合っているか?」と。

桜蔭を目指す日々は、**親子で“人生と向き合う旅”**なのです。

第4章:医学部を目指すということは、「生き方」を選ぶことでもある

「医師になりたい」と子どもが口にしたとき、
私たち親はどんな思いでその夢を受け止めるでしょうか。

「安定してるから?」
「偏差値が高いから?」
「親としても誇らしいから?」

──そうかもしれない。でも、それだけじゃない。

医師を目指すということは、
“知性”と“使命”を、両方求められる生き方を選ぶということ。

人の命に関わる現場で、冷静に判断し、誠実に行動する。
患者に向き合い、技術を研鑽し、社会の中で常に成長し続ける。
それは、偏差値だけで語れる世界ではありません。

私たちが医学部を目指すのは、
ただ難関に挑むからではなく、
**「生涯をかけて努力し続ける人になってほしい」**という願いがあるからです。

しかも──
医師を志すためには、「高校3年の自分」では遅い。

中学受験の段階から、もうその“人間づくり”は始まっている。
だからこそ、桜蔭中学からのルートにこだわるのです。

勉強量、思考力、言語力、感情のマネジメント、生活習慣。
すべてが、「一流の知性と人格」を育てる土壌になる。

医学部を目指すということは、“学ぶことの本質”に近づいていく道
そのために、今日もノートを開き、言葉を覚え、考える力を鍛える。

それはすべて、未来の誰かを救う力になると信じているからです。


第5章:私たちは“偏差値を超えた偏差値”に挑んでいるのかもしれない

もう一度、立ち返りたい言葉があります。

「偏差値のために勉強しているんじゃないの?」

そう聞かれても、私はこう言いたい。

──違います。偏差値を“超えた”偏差値に、私たちは挑んでいるのです。

それは、“数値”ではなく、“姿勢”です。
ただの成績ではなく、「どれだけ深く、広く、誠実に学んでいるか」。

百マス計算が速くなることよりも、
毎朝5時に自分で起きて机に向かう“意志”を育てること。

漢字を10個書けることよりも、
一つひとつの言葉に“意味”を見つけていく“好奇心”を育てること。

全国統一小学生テストで上位に入ることよりも、
「緊張するけど、やってみたい!」と感じた**“勇気”を讃えること**。

これこそが、“偏差値を超えた偏差値”。

つまり、「人間としての土台を築くことが、最も高度な学び」だということ。

だから私たちは、偏差値にこだわるようでいて、
実は──偏差値に飲み込まれない教育を目指しているのです。


第6章:だからこそ、今日の1時間を“魂の学び”に変えていく

では、私たちは今日、何をすべきか。

明日、模試がある。
1か月後、面談がある。
1年後、中学受験がある。

でも、私たちが本当に育てたいのは、**「未来を信じる力」**ではないでしょうか。

学んだことが、誰かの役に立つ。
努力した時間が、自分を支えてくれる。
だから、今日も机に向かう。

この感覚を、子どもの中に根づかせていくこと。

そして、親である私たちは
「一緒に悩み、支え、信じる人間」でありたい。

点数で評価するのではなく、
姿勢に感動できる親でありたい

我が家は、毎朝5時に起きます。
まだ外は暗く、肌寒い朝でも、
「さあ、始めよう」と声をかけ合って一日が始まる。

そこには、ただのルーティンではなく、
**親子で未来を信じる“対話”**があります。

だから、今日の1時間が、明日の偏差値だけでなく──
10年後の“生き方”に繋がると信じて

学びの時間は、人生の時間。
家庭は、最高の学び舎。

だから、私たちは今日もまた、静かにノートを開くのです。


終わりに:偏差値では測れない“魂の勉強”を、私たちはしている

偏差値がすべてではありません。
けれど、「今の自分を客観視する尺度」として、私たちはそれを一つの“物差し”として使っています。

大事なのは、何を目指して、どんな気持ちで、それを使うか

そして私たちは知っている。
本当に育てたいのは、「数字に現れないもの」だということを。

優しさ。誠実さ。根気強さ。
自分を信じる力。そして、人に希望を届ける力。

それは、偏差値のようには見えないけれど、
確実に、子どもの中に芽吹いている。

だからこそ、私たちはこの道を選びます。
全国統一小学生テストを受け、桜蔭を目指し、医学部という道に夢を託す。

それは、数字を超えた、魂の勉強なのです。

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